日本の新聞の歩み
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グーテンベルクが活版印刷機発明。大量の複製が可能となる
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かわら版:絵入り1枚刷り。事件や災害、赤穂浪士の敵討ち、心中などを伝えた
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1861(文久元)年 英国人ハンサードが長崎で英字紙創刊。日本最初の本格的新聞 1862(文久2)年 1月、幕府の蕃所調所が初めての日本語新聞『官板バタヒヤ新聞』創刊
(インドネシアにあったオランダ総督府の機関紙を翻訳。題はバタビヤからのニュースを意味)。8月、『官板海外新聞』と改める1864(元治元)年 6月、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)、日本で最初の民間新聞『新聞誌』を横浜で創刊。日本の「新聞の父」と評される 1865(慶応元)年 ヒコ、『新聞誌』を『海外新聞』と改題
※8月、英国などの四国連合艦隊が下関を砲撃/福沢諭吉、慶応義塾を創立1867(慶応3)年 英国人牧師ベーリーが外国人居留地の横浜で『万国新聞紙』創刊(不定期の邦字新聞。初めて国内ニュースを報道)
※10月、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還(政権を朝廷に返上)1868(慶応4)年 4月、米国人ヴァン・リードと岸田吟香が横浜の外国人居留地で『横浜新報もしほ草』創刊(毎号6枚)/幕臣の柳川春三が江戸で木版冊子体の『中外新聞』創刊。題は外国と国内事情を紹介するの意味
※1月、戊辰戦争(維新政府軍と旧幕府軍の内乱。~明治2年5月)始まる
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1868(慶応4・明治元)年 明治新政府が『太政官日誌』(官報。太政官は明治初期の最高官庁)を京都で創刊。のち東京でも。戦争や海外の情報も伝えた。政府は『江城日誌』(官報新聞)も発行/福地桜痴、『江湖新聞』を創刊するが、江戸幕府を擁護したため官軍に逮捕される 1869(明治2)年 新聞紙印行条例公布(政府統制の下に新聞発行を認める)
※3月、都が京都から東京へ1870(明治3)年 本木昌造が長崎に民間初の活版印刷所を開く
12月(新暦では1871年1月28日)、本木昌造の協力で『横浜毎日新聞』創刊。日本初の日刊新聞で1枚刷り。鉛活字での新聞印刷や広告料金の明示も日本で最初1871(明治4)年 大阪、京都、名古屋などの都市に新聞出現
※3月、郵便箱設置/7月、廃藩置県1872(明治5)年 2月、東京初の日刊紙『東京日日新聞』創刊(明治7年には福地桜痴が社長として入社。主筆(筆頭記者)の岸田吟香も筆をふるう)/英国人ジョン・ブラックの『日新真事誌』(痛烈に政府批判)、前島密の『郵便報知新聞』創刊
※9月、新橋―横浜間に鉄道開通/11月、太陽暦を採用1874(明治7)年 9月、『朝野新聞』(民権派の政論新聞。銀座に社屋。社長兼主筆は成島柳北)
創刊/11月、『読売新聞』創刊。漢文体で政治中心、知識人相手の「大(おお)新聞」に対し、小型で漢字にかなを振る庶民対象の「小(こ)新聞」として誕生
※1月、板垣退助らが政府に民撰議院(国会)の設立建白書を提出1875(明治8)年 6月、高まる自由民権運動に対し、政府が新聞弾圧の新聞紙条例と讒謗律を制定。後者は名誉きそんを取り締まるためのもの/『平仮名絵入り新聞』が無署名の「岩田八十八の話」を連載=新聞小説の始まり 1877(明治10)年 東京日日の福地桜痴、朝野新聞の成島柳北、郵便報知の犬養毅らが西南戦争を報道/7月、最初の夕刊紙『東京毎夕』創刊 1878(明治11)年 朝野新聞が発行停止(日刊紙で最初)
※5月、大久保利通暗殺1879(明治12)年 1月、大阪で『朝日新聞』創刊 1881(明治14)年 7月、東京横浜毎日が北海道官有物払い下げ事件を暴露し、汚職事件が発覚(開拓史長官・黒田清隆が船舶や鉱山などを破格の条件で同じ薩摩の五代友厚らの関西貿易商会に譲渡しようとした)。世論や自由民権派の攻撃で払い下げは中止。国会開設・憲法制定をめぐる対立から伊藤博文らが急進派の参議大隈重信らを追放し(「明治14年の政変」)、薩長藩閥体制が確立
※10月12日、政府が9年後の国会開設を約束/10月、板垣退助を総裁とする自由党結成1882(明治15)年 3月、福沢諭吉が不偏不党を掲げた『時事新報』創刊/6月、自由党の日刊機関紙『自由新聞』創刊(国会開設に備えた政党結成を受け、大半の政論新聞は政党色を強める)
※4月、大隈重信が立憲改進党を組織し、党首に/10月、大隈が東京専門学校(現・早稲田大学)創立1883(明治16)年 4月、新聞紙条例改正。言論取り締まり強化
※11月、鹿鳴館が開館し、欧風政策の鹿鳴館時代に1885(明治18)年 1月、東京日日が初の朝夕刊セット発行
※12月、内閣制度始まり、第1次伊藤博文内閣発足1886(明治19)年 10月、紀州沖で英国籍の貨物船が難破したノルマントン号事件(英国人は救助、日本人客は全員水死)。イギリス領事が下した判決は英国人の罪をほとんど問わなかったため世論騒ぐ。(領事裁判権は1894年に撤廃) 1887(明治22)年 2月、徳富蘇峰が民友社を結成し、雑誌『国民の友』創刊 1888(明治21)年 『大阪日報』が『大阪毎日新聞』(大毎)に改題/7月、東京の『めさまし新聞』を買収・改題し『東京朝日新聞』創刊/7月、磐梯山噴火に東京朝日と読売が現地ルポ(災害報道の始まり)
※4月、言論団体「政教社」の三宅雪嶺、志賀重昂らが雑誌『日本人』(のち『日本及日本人』)創刊(政府の鹿鳴館的欧化政策と薩長藩閥政治を批判し、国粋保存主義を提唱)1889(明治22)年 2月、大日本帝国憲法発布で速報合戦/2月、陸羯南が新聞『日本』創刊(党派性否定の「独立新聞」を掲げ、欧化主義に対して雑誌『日本人』の三宅雪嶺らと国粋主義を主張。記者に正岡子規、池辺三山、鳥居素川、長谷川如是閑ら) 1890(明治23)年 2月、徳富蘇峰、日刊の『国民新聞』創刊/11月の第1回帝国議会開会に備え、官報局長が大量印刷の輪転機視察で渡仏。同行した朝日がマリノニ輪転機初輸入(明治30年代には同機を複製・改良したマリノニ型輪転機が普及する)
※7月、第1回総選挙/10月、教育の基本方針を示す教育勅語発布1892(明治25)年 黒岩涙香が『万朝報』創刊。〝よろず重宝〟をもじった紙名で簡単・明瞭・痛快がモットー。涙香は探偵小説も書き、明治32年には発行部数が東京紙で1位に 1893(明治26)年 1月、全国記者同盟、新聞条例改正運動を始める/26歳の秋山定輔が『二六新報』創刊。経営難で休刊後、明治33年に再興すると大衆紙として報道キャンペーンやスキャンダル記事で人気。最高18万部 1894(明治27)年 「めさまし新聞」の記者・光永星郎(「電通」創立者)も日清戦争に従軍
※8月、清国に宣戦布告(日清戦争始まる)1895(明治28)年 5月、各紙社説に「臥薪嘗胆」(恨みを晴らすため耐え忍ぶこと)登場
※4月、日清戦争の講話条約(下関条約)で日本が得た遼東半島領有をロシア・ドイツ、フランス三国が清国へ返還を要求=三国干渉1897(明治30)年 徳富蘇峰、内務省勅任参事官に就任。「変節者」と非難を浴びる 1898(明治31)年 1月、報知新聞に案内広告欄登場/11月、国民新聞に徳冨蘆花の小説『不如帰』連載開始
※6月、大隈重信、板垣退助の憲政党内閣成立=最初の政党内閣1899(明治32)年 新聞社に速記者登場 1900(明治33)年 大阪毎日が日本最初の海外常設通信員を設ける
※3月、治安警察法公布/9月、伊藤博文ら立憲政友会結成(憲政党の旧自由党系を吸収)1901(明治34)年 7月、光永星郎が日本広告社(電通の前身)設立
※12月、田中正造、足尾鉱毒事件で天皇に直訴1902(明治35)年 ※1月、日英同盟調印 1903(明治36)年 10月、日露開戦をめぐり非戦論の内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦が万朝報を去る 1904(明治37)年 1月、大阪朝日でコラム「天声人語」連載開始/日露開戦で各紙、戦勝報道と相次ぐ号外発行
※2月、日露戦争始まる1905(明治38)年 9月、ロシアに賠償金支払いのない日露講話条約(ポーツマス条約)反対集会に集まった群衆が日比谷公園で集会後、内相官邸や国民新聞、交番などを襲撃=日比谷焼き打ち事件
※5月、日本海海戦でバルチック艦隊を破る/7月、樺太占領1907(明治40)年 幸徳秋水ら『平民新聞』創刊/国民新聞に日本初の地方版
2月、池辺三山の後押しで東京朝日に夏目漱石入社(6月、小説『虞美人草』連載開始)
※1月、堺利彦ら日本社会党結成1908(明治41)年 3月、時事新報が「日本第一の美人」を募集 1909(明治42)年 5月、新聞紙法公布。内相に発売禁止権を与える
※10月、伊藤博文、ハルビンで暗殺される1910(明治43)年 ※5月、大逆事件。天皇暗殺計画を理由に幸徳秋水ら逮捕される/8月、日韓併合条約(朝鮮と改称し植民地化)。朝鮮総督府(初代総督=寺内正毅)を設置 1911(明治44)年 大阪毎日(社長・本山彦一)が東京日日を合併
※1月、大逆事件判決(幸徳秋水ら死刑)1912(明治45)年 7月30日、天皇崩御。各新聞は全紙黒枠で報道。東京朝日の緒方竹虎が大正の元号をスクープ
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1913(大正2)年 1月、記者大会で藩閥政治に対し憲政擁護を決議/2月、桂太郎内閣擁護の国民新聞社などを民衆が焼き打ち/4月、日本新聞協会設立
※2月、護憲運動のデモ、全国に波及し桂内閣総辞職(大正政変)1914(大正3)年 1月、海軍汚職のシーメンス事件。3月には新聞が山本権兵衛内閣を倒す/読売に婦人欄登場
※1月、桜島大噴火し、大隅半島と地続きに/7月、第一次世界大戦始まる1915(大正4)年 8月、朝日が全国中等学校野球優勝大会を開始/10月、朝日、毎日などが夕刊発行 1916(大正5)年 10月、記者大会で官僚軍閥政治打破を決議 1918(大正7)年 8月、寺内正毅内閣が米騒動に関する報道を禁止すると関西新聞通信社大会で内閣弾劾決議。この時、大阪朝日が天皇不敬の筆禍事件。鳥居素川と部下の長谷川如是閑らが退社
※8月、政府がシベリア出兵宣言。富山県から米騒動起こる/9月、寺内内閣総辞職し、原敬内閣(初の本格的政党内閣)に
※徳富蘇峰、『近世日本国民史』の執筆に着手1919(大正8)年 鳥居素川ら『大正日日新聞』創刊(翌年、解散) 1920(大正9)年 読売が記事に口語体を採用
※1月、国際連盟に加入(常任理事国)/3月、平塚雷鳥、市川房枝ら新婦人協会結成1921(大正10)年 11月、時事新報が日英同盟廃棄の世界的スクープ 1922(大正11)年 4月、『週刊朝日』『サンデー毎日』創刊
※3月、全国水平社結成。差別と貧困からの解放を求める1923(大正12)年 9月、関東大震災(死者・不明14万人)。東京日日、報知、都新聞を除いて東京各紙は打撃を受け、大阪が本拠の朝日と毎日が全国紙となるきっかけに。同様に打撃を受けた読売は翌年から経営に乗りだした正力松太郎が再建させる 1924(大正13)年 1月、大阪毎日と大阪朝日が100万部を突破/2月、護憲全国記者大会/3月、東京放送局がラジオの試験放送を開始(11月、読売が新聞にラジオ版を設ける)/8月、国民新聞に日本で最初の天気図掲載
※7月、メートル法の使用を始める1925(大正14)年 ※4月、治安維持法公布/5月、普通選挙法公布 1926(大正15)年 ※9月、日本初の普通選挙/12月15日、大正天皇崩御
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1926(昭和元)年 12月15日、「昭和」に元号変わる。東京日日(現・毎日)が「元号は光文」と誤報。編集主幹の城戸元亮、責任を取り退社 1928(昭和3)年 4月、皇室記事誤植で各社、校閲部を創設 1929(昭和4)年 1月、徳富蘇峰、国民新聞社を去り、大阪毎日と東京日日の社賓に招かれる/9月、新聞休館日を設定 1931(昭和6)年 9月、満州事変発生でラジオ臨時ニュース第1号/11月、読売の正力松太郎が社内の反対を押し切り夕刊発行。朝日、毎日と競争の時代へ 1932(昭和7)年 5月、『福岡日日新聞』(現・西日本新聞)の菊竹六鼓が犬養毅首相暗殺(五・一五事件)で軍部批判 1933(昭和8)年 8月、『信濃毎日新聞』の主筆・桐生悠々が評論「関東防空大演習を嗤う」を書き、軍部批判/10月、大阪毎日で城戸元亮会長を追放する城戸事件 1936(昭和11)年 1月、電通と新聞聯合社の合併で同盟通信社設立(政府による通信統制)/2月、二・二六事件で新聞混乱 1940(昭和15)年 9月、大阪朝日と東京朝日の題号を『朝日新聞』に統一/12月、言論統制のため政府が情報局を設立 1941(昭和16)年 12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争始まる。新聞から天気予報消える 1942(昭和17)年 2月、日本新聞協会設立/東京、大阪を除き一県一紙に新聞統合。日刊紙発行社は55社となり、有力県紙も誕生/国民新聞と都新聞合併で『東京新聞』誕生/12月、大日本言論報国会創立 1943(昭和18)年 1月1日、中野正剛の寄稿「戦時宰相論」掲載で朝日が発禁に(10月、中野自殺)/1月、大阪毎日は姉妹紙の東京日日と共に『毎日新聞』となる 1944(昭和19)年 2月、大阪毎日編集局長の吉岡文六=人吉出身=が竹やり記事(見出し→「竹槍では間に合わぬ」)で大問題に 1945(昭和20)年 9月、占領軍が検閲実施/11月、共同通信社と時事通信社創設/日本初のスポーツ紙『日刊スポーツ』創刊
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1945(昭和20)年 8月、終戦。戦争終結の玉音放送/12月、新選挙法公布 1946(昭和21)年 1月、GHQ(連合国軍総司令部)が軍国主義者の公職追放を指令/4月、新選挙法による初の衆議院選挙で女性議員誕生/11月、当用漢字、新かなづかい採用 1947(昭和22)年 5月、新憲法施行/8月、言論機関の追放者発表 1948(昭和23)年 10月、初の新聞週間 1950(昭和25)年 GHQが共産党員や同調者のレッドパージを指示 1952(昭和27)年 読売が『大阪読売新聞』創刊。大阪の『産業経済新聞』は東京進出/10月、朝日、毎日、読売が共同通信を脱退 1953(昭和28)年 2月、NHKがテレビ本放送/8月、日本テレビ開局 1956(昭和31)年 2月、『週刊新潮』創刊。出版社系の週刊誌ブームに口火 1958(昭和33)年 11月、皇太子妃の取材で報道協定守られる(翌年4月、結婚。パレードに53万人 1965(昭和40)年 1月、朝日が日本の新聞で初の500万部突破 1966(昭和41)年 8月、政界の〝黒い霧〟キャンペーン 1972(昭和47)年 4月、外務省秘密漏えい事件で毎日記者ら逮捕/6月、佐藤栄作首相、退陣会見で「新聞は偏向している。記者は帰ってください」発言 1973(昭和48)年 12月、石油危機で政府が緊急事態宣言。新聞も大幅減ページに 1978(昭和53)年 3月、『日本経済新聞』など新聞製作の電算機利用に全面移行=コンピューター時代到来 1989(昭和64)年 1月7日、天皇逝去。新元号は「平成」