読者は熊本の侍
新聞の歴史のコーナーを歩いてごらん。江戸時代の終わりに日本最初の新聞「新聞誌」(のちの「海外新聞」)を横浜で発行した「新聞の父」浜田彦蔵(はまだ・ひこぞう=ジョセフ・ヒコ)が紹介されているよ。侍の写真もあるけど、なぜだろう。実は定期購読の中心は肥後藩士たち。日本最初の新聞読者は熊本の侍だったんだよ。
熊本城訪ねたジョセフ・ヒコ
日本最初の新聞を出したジョセフ・ヒコは熊本城を訪ねているんだよ。1871(明治4)年に本丸御殿を見学、天守閣も登ったけど、それは荒れ果てた城。肥後藩が城を壊そうと考えていた時期で、ヒコは「賛成しかねる」と反対。でも6年後の1877年、西南戦争で天守閣も御殿も燃えてしまうんだ。
西南戦争で特ダネ競う
熊本城や田原坂が戦場となった明治10(1877)年の西南戦争は日本最後の内戦。ロンドンの新聞にも載ったほどの国際的事件だった。「東京日日」「郵便報知」などの新聞社は記者を送って特ダネを競ったよ。その中に後に首相となる23歳の犬養毅(いぬかい・つよし)もいた。この戦争では電報もニュース源となったんだよ。
明治天皇に説明
「東京日日」の特派員として西南戦争を取材したのが長崎生まれの福地源一郎(ふくち・げんいちろう)という人。彼は戦争の途中、明治天皇に田原坂の激戦の様子を約2時間かけて説明し、新聞記者の地位を高めることにもつながった。その様子を伝える絵や日本最初の戦争特派員(従軍記者)たちの写真を博物館で探してごらん。
「白川新聞」が熊本初
熊本最初の新聞は「白川新聞」。当時、熊本は白川県といったからね。九州では長崎に次いで明治7(1874)年に第1号を出し、月2回発行。県名が変わると「熊本新聞」と改めた。発行者は明治6年に長崎から印刷機を買って印刷会社を始めた水島貫之(みずしま・かんし)、伊喜見文吾(いきみ・ぶんご)という二人。熊本最初の新聞人だよ。