左右が逆
博物館の右奥には「大組(おおぐ)み台」があるよ。鉛の活字や写真を1ページごとにまとめる。箱組みという作業で記事ごとに作ったものを指定の位置に置いていくんだ。ページの上には熊本日日新聞の社名と日付も入れて。
新聞を読む時は右から左へだけど、活字は逆だから左から右へ進む。専門のおじさんたちがピンセットを上手に使って活字を倒さずに作っていた。1ページを30~40分で仕上げていたよ。
18キロもある鉛版
博物館で力比べもできるよ。丸い鉛版を持ち上げてごらん。18キロもあるんだ。熱に強い厚紙でできた新聞1ページ大の紙型(しけい)に鉛を流し込んで作る。そして輪転機にセットして印刷していた。鉛版は鉛釡(なまりがま)に返して翌日また使っていたんだよ。
鉛版の横に置いてあるのがフィルム。これを元にアルミ版を作るように変わった。1980年代には鉛を一切使わない技術革新が訪れ、100分の1の軽さになったんだよ。
点で表現
新聞の写真は、たくさんの点が規則正しく並んだ「網点(あみてん)」で作られる。網の大小で濃淡を表し、写真のように見せる。明るいところは小さな点に、暗いところは大きな黒い点になるんだ。
カラー写真も3原色(青、赤、黄)と黒の4色の細かい点が重なり合った網点で表現。博物館には写真を網点に分解していたスクリーンという道具を展示してあるよ。
大変だった製版
初期の新聞に写真はなく、写真や絵は付録でついていた。写真や絵や地図を印刷に適するように作り変える「製版(せいはん)」には大変な時間がかかっていた。
博物館にあるのは、でっかい製版カメラ。写真や絵を拡大や縮小して、新聞に載せる大きさにフィルム化していた。正確な水平移動ができるようにレール付きなんだ。展示物は金属製だけど、昭和20年代に活躍した木製の写真も探してごらん。
ボン焚き
カメラの話をしよう。昭和の初めは箱型の木製カメラが主力。距離合わせは目測(もくそく)だから経験や勘(かん)が頼りだった。
戦後になっても苦労したのが暗い場所での照明。今のようにストロボはなく、マグネシウムを焚(た)いた光を使っていた。先輩が「よしっ」と声を掛け、「ボン」と焚くから「ボン焚き」。1回発光させると部屋中が煙もうもうだった。